笹川の相撲まつり

諏訪神社秋季大祭

 7月最終土曜日 千葉県東庄町笹川

毎年7月最終土曜日に千葉県東庄町笹川の諏訪神社笹川の相撲まつりが開催されています。

この相撲まつりは、江戸時代後期の1835年から1837年にかけて最大規模化した飢饉である天保の
大飢饉で苦しむ農民を救済するために、天保水滸伝で有名な笹川繁蔵が、天保13年(西暦1842年)
7月27日、諏訪大神秋季大祭の境内で相撲を開催した花会が起源になっているとされています。

花会とは、平安時代のいけ花の展覧会から発展し、唄・浄瑠璃・踊りなどの襲名披露の会のことも意味
するようになっていますが、ここで言う花会とは職人・博徒などが知人から金を得るために回状をまわして
催す会のことを意味し、清水の次郎長、国定忠治、大前田英五郎といった任侠の人達も多く参加したと
されていますが、次郎長は1820年生まれで当時はまだ22歳で売り出し前ですし、国定忠治も手配書が
出て逃亡中であったので、天保水滸伝で伝わっている事は「講釈師 見てきたような 嘘を言い」なのかも
しれません。
江戸時代には、それまでの神事としての相撲ではなく、前後三番の勝ち抜きの賭け相撲があちこちの辻で
行われるようになり、幕府は何度も禁止令を出していますが、その法の目を逃れるように寺社修復を名目に
木戸銭をとる勧進相撲が行われていました。
笹川繁蔵が開催した相撲も、公儀の許可を得た寺社の名義を借りた上での勧進相撲だったはずです。
天保水滸伝に出てくる笹川繁蔵とその敵役である飯岡助五郎は、それぞれ江戸相撲の千賀ノ浦部屋、
友綱部屋に入門した経験があり、共に自分の縄張りで奉納相撲を取り仕切っていたという共通点があります。

幕末の時代には、笹川繁蔵の他、大前田英五郎、国定忠治、清水の次郎長、新門辰五郎、勢力富五郎、
会津の小鉄、飯岡助五郎、黒駒の勝蔵、江戸屋虎五郎、都田の源八、高萩の万次郎、大場の久八、
保下田の久六、合渡(こうど、岐阜市)の政右衛門(政五郎)、関の遠藤小左衛門、大垣の水野弥太郎、
美濃の神田の豊吉、尾張犬山の犬屋金十郎、竹居の吃安(安五郎)、田中岩五郎、丹波屋伝兵衛、など
の侠客が活躍(?)していましたが、その実態は 文化12年(1815)の勘定奉行の達書(たっしがき)にも

在々所々長脇差を帯び、または帯刀致し、御代官手付手代(つまり八州廻り)の手先、あるいは
火付盗賊改(ひつけとうぞくあらため)の手先などと申しなし、博奕(ばくち)致し、喧嘩口論を好み、
仲直りと称して金銭をゆすり取り、所々百姓家にて衒事(かたりごと)、または押借(おしか)り等致し、
あるいは人の女房娘等を無体に連れ参り、百姓家へ押しかけて無賃にて数日逗留致し、盗賊を取り
押さへ、双方(盗賊と被害に遭った者)より金子(きんす)等をゆすり取り、無賃にて人馬等を継ぎ送らせ

などと記されていますが、現在に置き換えれば、警察業務の委託、警備、パチンコ・競馬・競輪・競艇の
ような公営ギャンブル、プロモーター、弁護士、のような仕事をしていたとも言えますので、それなりの人気
はあったようです。
幕府や各地の大名の領地に住む市井の人々にしてみれば、年貢の取り立てよりは見返りがある分、マシ
だったのかもしれません。
実際、天保の大飢饉に対する幕府などの援助はお抱えの豪商達の私腹を肥やすために使われただけで
恩恵は末端まで行き届かなかったというのが実情でしたので、任侠の連中が興業によって得た金の方が
有効に使われた比率が遙かに高くなるかもしれません。

この相撲まつりも香取神宮の新飯神事奉納相撲同様、以前は地元の青年達によって行われていましたが、
年々参加人数が減少してきたため、神事としての伝統を守るために、自衛隊に協力を求めることになり、
現在に至っています。


2017年 画像

戻る

参加者の方々に画像データをパスワード付のページでダウンロードできるようにしております。

参加者の方でパスワードをご希望の方は下掲の掲示板からご連絡下さい。


非営利で相撲の大会・祭を撮影しています。
撮影をご希望の方は上掲の掲示板からご連絡ください。